* にのみやさをり作品集 / my eyes, my mind *
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◆michiko

みっちゃんは、私にとって特別な存在だった。
普段の賑やかな彼女からは想像がつかないが、カメラの前に立つと彼女はしんとする。
しんとした空気は凛と張りつめて、途端にそこだけ別世界になる。
そして、彼女は。
空っぽになってくれるのだ。
「私」を私が注ぎ込む容器に。

私は彼女によって引き出されたといっても過言じゃぁない。
彼女と最初に出会えたから、私は今のカタチを手にすることができた。

彼女は何処までも空っぽになり、
私はそこに、私を注ぎ込む、という作業。
その作業をひたすら続けた。
彼女の写真があったから、私はプリントでも自分のカタチを見出すことができた。

とんでもなく大きい、とてつもなく大きい、私にとってそういう存在だ。

これが私のカタチ。
これが私の世界。

彼女との出会いは、私に、私、を知らしめるものだった。

彼女はそうして私にとってなくてはならない存在になった。
そうして何年くらい彼女と組んで写真を撮ってきただろう。

ずいぶんいろんなものを彼女と共有してきた。
この写真を撮った時は、とある廃墟まで出かけたのだけれども、
このときのこの場所の清浄すぎるといっていいほど澄んだ空気は
私と彼女の心を拭った。
それまで重苦しく、もう帰ろうか、なんて言っていたのが嘘のように
撮影は進んだのだった。

彼女が私の「容れ器」(いれもの)になってくれるから
私は遠慮なく自分を作品に注ぎ込むことを覚えた。
ネガは楽譜、プリントは演奏。
彼女とタッグを組む中で、私が覚えたものは、それに尽きる。
私はだからいつも、引き算をしていた。
ネガ、というひとつの完成された版から、
どれだけ自分の要素を抽出できるか。
そしてそれをどれだけ印画紙に焼き付けられるか。
それに終始した。

彼女と組んだからこそ、今の私の写真が、在る、と言える。

みっちゃんを撮っていると、私は自分の内奥に常に溢れている何かしらを凝視せずにいられなくなる。
それは傷による膿なのか、それともまったく異なるまっさらな水なのか、
わからないけれども。
絶えず溢れ来る何かが、そこに在ることは確か、で。

私は彼女を凝視しながら、
彼女の向こうに間違いなく透けて見える自分をこそ、
撮っていたんだ、と。

だから、生半可な気持ちで彼女と向き合うと、失敗した。
とてもカメラを向けられない気持ちにさせられるのだ。

だからいつもある種の覚悟をもって
彼女に向かった。
でないと、彼女は、そして彼女の向こうの自分は
にやり笑って姿を隠してしまう。

そして。

カメラを挟んで向こうとこちら、
向き合うということはいつだって
真剣勝負なんだ、ということを
私は教えられた。

みっちゃんは、つまり。
私にとって、完璧な対象、だった。
もちろん私たちが向き合う時、どうにもこうにもうまくかみ合わないときだってあった。
それでも。
そうしたことを全部ひっくるめて。
彼女は私にとって、モデルを越えた完璧な対象、だった。

彼女は自分の引き際をわきまえており、
じきに私の写真からすうっと消えてゆく。
それでも。
彼女と向き合う中で私が培ったものたちは
私の中に確かなものとして残り、
今もそれは、どくどくと脈打って、いる。

余談になるが。
私は彼女の、何より「眼」が好きだった。
何処までもこちらの中心を射ってくる、鋭いまなざしをもった、その大きな大きな瞳が。
何よりも、好き、だった。

今改めて、言おう。
みっちゃん、私が男じゃなくてよかった。
男だったら、私は間違いなく君に惚れていた。
惚れて、写真など撮れない心理状態に陥っていたに違いない。
私は女だったから、かろうじてそうならずに済んだ、
そうならずに済んだおかげで、君と向きあい、こうして写真を残すことができた。

女であってくれて、ありがとう。
君でいてくれて、ありがとう。

また、君がばぁちゃんになる頃、
ぜひ君を撮らせてほしい。
魅力的な皺を刻んだ君の顔を、
ぜひ。

© Saori NINOMIYA